
次回の歴史史跡散策ウォーキングは、愛知県豊川市牛久保を訪れます。見どころは桶狭間合戦で討たれた今川義元の胴塚と牛久保城址、そして武田信玄の軍師といわれた山本勘助の遺髪塚です。
【日にち】 4月2(土)、4月3(日)
【出発場所】 JR牛久保駅改札前
【出発時間】
午前 9時:30分
【解散場所】 JR牛久保駅改札前
【解散予定時間】
正午くらい
【持ち物】 筆記用具
【参加費】 2,000円
※非会員2,500円
【締切】 3月23(水)
※ 参加される方はマスク着用をお願いします。
※ 当日37℃以上の熱がある方は参加しないで下さい。
※ 小雨決行です。中止の場合はメールにて連絡します。
永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元は討たれてしまい、首は織田軍によって奪われ、後には胴体だけが残りました。
今川軍の残兵は亡き主君の遺体を駿河まで運ぼうとしましたが、初夏の気温で傷みも激しく、当時今川領だった牛久保の大聖寺に葬ることにしました。
後に義元の息子・今川氏真が軍を率いて墓所を整備しましたが、石塔の一番下は手水鉢(ちょうずばち)なのです。これには深い理由がありました。
大聖寺がある牛久保には牧野氏が治める牛久保城(牛窪城)がありました。天正三年(1575)の長篠・設楽原の戦いで、織田信長が宿泊した城です。
かつての牛久保城は背後を大河に囲まれ、城下町を持った城だったことがわかります。現在ではそのほとんどが住宅地になっていますが、高低差や城を思わせる地名(字名)が残っています。
住宅地の中に奇跡的に残っている一色城址の土塁。牛久保城の前身の城の遺構です。
牛久保の長谷寺には、武田信玄の軍師といわれている山本勘助の遺髪塚があります。山本勘助の養父が牛久保城の牧野氏に仕えており、勘助が青年時代を過ごした屋敷が牛久保にありました。
東国に旅立つ時、生きては帰らないと思った勘助は、親しかった長谷寺の和尚に自分の遺髪を託しました。後に川中島の戦いで勘助が討ち死にした事を知った和尚により、遺髪塚が建立されたのです。
【日にち】 4月2(土)、4月3(日)
【出発場所】 JR牛久保駅改札前
【出発時間】
午前 9時:30分
【解散場所】 JR牛久保駅改札前
【解散予定時間】
正午くらい
【持ち物】 筆記用具
【参加費】 2,000円
※非会員2,500円
【締切】 3月23(水)
※ 参加される方はマスク着用をお願いします。
※ 当日37℃以上の熱がある方は参加しないで下さい。
※ 小雨決行です。中止の場合はメールにて連絡します。